パシェニャの冒険 エピソード・ゼロ (作:古歌良街 )

 『ウヘヒッパエの赤いげっ歯類』は『人間』とは似ても似つかないが、これらはかなり似た性質も持っている。海の底に棲む五角形の生き物もそうだ。人間もげっ歯類も海底動物も、同じように何かを食べ続けないと、死骸を落とすことになるのだ。
  ――レベッカ・K・ゲロウ『七面鳥と肉屋』(民明書房・刊)より

  b

 彼女はうまれたときから目が良く、視力は6.0を超えていた。大抵の赤ん坊は30センチ付近までしかしっかり見えない程度の視力しかなく、それにより母親の顔だけを心に灼きつけるという。彼女は大抵の赤ん坊には含まれておらず、よって、母親の顔を思いだすことができなかった。さらには、彼女の両親は彼女が3歳のときに理由を告げずに失踪し、彼女は一生涯両親の顔を思い出す事ができなかった。
 しかし、その視力という才能は、後に伝説的な銃の申し子となるために役立った。とあるマンガでは、スナイパーライフルを銃座に固定せずに立った姿勢で狙って百発百中させる描写があるが、それを可能にするほどのものだったのだ。
 碧色に輝く瞳は、幼い頃はブロンドの前髪で隠れがちだったが、この『実は美貌の持ち主』というところが役に立つ天運だったかは――不幸な『ある事件』に遭うことについては、悪運そのものだった。
 彼女の名は、ピチカータ・ミハイロヴナ・マノヴィチ。
 両親はともにロシア人であり、そのようなふざけた名前をつける程度にその子、本名ピチカータからきた愛称「パシェニャ」を愛していたかもしれない。両親はロシアを出国してイタリアに移り住み、そこでパシェニャが産まれたのだった。その両親は、なぜかパシェニャが3歳のとき失踪したわけではあるが、離婚してパシェニャがジャマになって捨てたのか、単に2人で逃げる事態があったのか、それはわからなかった。
 そして、このお話は彼女が9歳の頃のお話である。
 未来の――15歳頃のパシェニャのクリーム色の髪は生まれてから一度も切っていないかのようになめらかにのばされていて、風に乗ってさわやかに揺れ、肌は健康的に透き通り、エメラルドグリーンの瞳は意思の強そうな印象を現している。
 しかし、9歳の頃はそのように美しいとは言いがたく、薄汚い物扱いされることのほうが多かった。イタリアのスラム街で、街路清掃、要するにゴミあさりをしてすごしていたからだ。「馬鹿のピチカータ」などとイジメられてもいた。街路清掃業者には市長からわずかばかりのほどこしもあった。ちなみに一番の好物は、時々ある、オマケシールだけ取られた残りのチョコウェファース、いわゆる捨て菓子だったかもしれない。しかし、週に1回か2回は、少ないお金を使って普通の食事もできていた。
 そんななかでのある日、『ある事件』の被害に遭い、通りすがりの名も無き男に救けられ、呼ばれた警官が現れ、なんだかんだあって、ロシアの孤児院に送還された。両親はどうしたのか、どういう二人だったのかとイタリアの保健師に聞かれたとき、パシェニャはロシア語で、
「もうこの世にはいないけれど、ロシア人――二人ともロシア人で……」
 と言ったため、ロシアの孤児院に行くことになったのだった。
 両親がロシア人で、ロシア語とイタリア語の両方を知っている9歳の彼女にはちょうど良かったかもしれない。
  2

「みなさん、新しいお友だちよ。ほら、パシェニャ、自己紹介なさい」
 保健所職員によって孤児院に連れてこられたパシェニャ――小綺麗に洗われて汚くはなくなった――は、自己紹介をさせられることになった。
 うつむきかげんで、マフラーに頸をうずめたパシェニャは、
「ピチカータ・ミハイロヴナ・マノヴィチ……よろしく……」
 あまりにも消極的な子だと感じられた、そうパシェニャは思った。
 そこで、孤児院の積極的なふうの子たちは、助け舟をだしてくれた。
「そのマフラーいいね。ぼくのと交換しない?」「髪キレイ!」「どこから来たの? わたしはピーテルで捨てられてたんだけどね……」
 パシェニャはスラムでの泥と灰まみれを文字通りきれいに洗い流されていたので、見た目の第一印象はあまり悪くなかった。しかし、皆の声にパシェニャは、
「……………」
 うつむくだけだった。
 初めの3日間くらいは、皆がこの新入りを歓迎しようと遊びに誘った。
ドッジボールやろうよ」「テトリスもあるよ」「ヒナミザワ鬼ごっこはどう?」
 そういった誘いをパシェニャは、
「…………いい」
 全て断った。
 当然のように、一週間で誰も遊びに誘わなくなり、パシェニャは孤立した。
 さて、この孤児院は、子供たち25人が暮らすには、やや劣悪な環境だった。そこらじゅうを羽虫やドブネズミやムカデが、飛んだり、かじったり、うごめいており、ベッドはダニの棲み家だつた。パシェニャ以外の子供たちや『ママ』たちはダニアレルギー持ちではなかったが、パシェニャだけはダニやダニのフンで皮膚をダメにされていた。定期的に日に干してもやはりダニのフンはどうにもならなかった。皮膚炎はパシェニャの印象をかなり悪くしてしまっていた。ちなみに、トイレやキッチン、床などは毎日孤児院の子供たちによって当番制で掃除されていて、清潔に保たれていた。建物の周辺は花壇と芝生が――これらも子供たちの仕事でキレイにされていて――建物を少しは優美に見せていた。建物の壁はツタ植物で覆われていたが、それは建物に年季と頑丈さと風流さの混じった印象を与えていた。秋の風は涼しく、大きな木々の木陰も、木陰ではない日向も、とても快適だった。ただ、出される料理は美味しいとは言いがたかった。ポテトサラダばかりが出た。一週間に一回だけ出るオヤツのチョコレートは奪い合いのようになった。ママたちが料理の手を抜いているのではなく、これは厚生労働省が孤児(みなしご)に関して冷たかったという理由が大きかった。
 孤児院のママは2人おり、当然のように2人とも女性だった。一人は背が高い50歳代で、子供たちを叱りつけたりわざと怒ったりする役、もう一人は和をもって貴しとする、ごく優しい20歳代だった。その2人が国から給料を貰って働いており、子供たち――年齢は4から12歳の男子女子合わせて、25人ほど――をわが子のようにあつかっていた。
 しかし、パシェニャは……工作教室の接着ノリを食べたり、花壇の花をもいでは蜜を吸い、水道の水を特に意味もなく飲んだり、自分の髪の毛を一本ずつ抜くことを繰り返したり、ときおり手の指の爪付近の皮膚を食べたりしていた。そういった奇妙な行動も、強いストレスにさらされている子供にはありがちではあった。そう、パシェニャには強いストレスがあった。そして、子供たちはそんなパシェニャをさんざんからかった。そしてパシェニャは怒ると、からかったやつらに椅子を投げたり、鉛筆を投げたりと、さんざんなトラブルを起こした。子供たちは、パシェニャをわざと怒らせることもしばしばだった。
 そんなパシェニャをわが子のようにあつかうのは、ママたちにとっては残念ながら難しいことだつた。
 そんなある日、ベテランのほうのママは子供たちの前で真剣げにパシェニャにむかって言った。
「いい? これからあなたの頬を打ちます。花壇の花をもぐたび、髪を抜くたび、椅子を投げるたび。あなただけでなく、ここにいるみんなもおなじように。でも、打つのはあなたのためなのよ、パシェニャ。わかるわね?」
 パシェニャはそれを聞いた直後、自分の髪の毛を一本抜いた。
 ママはパシェニャの頬を打った。大きな音が響いた。
 しかしパシェニャは涙目にすらならない。そこで若い方のママが慰めてパシェニャをさとす作戦だと、パシェニャは気付いていた。作戦は失敗だった。
 子供たちはみな怯えにおびえた。
 そんなパシェニャでも、図鑑や教育マンガ本を眺めているときは静かだった。ただ、誰が話しかけても無視して本に没頭していたが。無視に続く無視といった状態だった。
 あるとき、孤児院の年下の女の子が、怒った調子でパシェニャに声をかけた。
「なんでパシェニャはお歌を歌わないの? 声だせるでしょ? クチパクすらしないし。みんなのハーモニーがたのしいのに。ストレスかいしょうにもなるのに。ふりょうぶってるの? かっこよくもかわいくもないよ」
 孤児院の子供たちは、合唱の時間にパシェニャに向かってそのようなことを言うことがあつた。
 それへの返事としてパシェニャは、まず、うつむいた。そしてボソッと、
「ようちなうたはきらいだ。何が『ドはドーナツのド』だ」
 と、つぶやいた。結局、皆が歌っている間に、口を動かすことすらしなかった。
 孤児院のドーナツはパサパサしすぎていて、ウェファース菓子の3倍は不味い。『みんな』という語には、なぜか不快感をおぼえる。わたしはみんなと仲良くなんてできそうもない。嫌われている。疎まれている。嘲笑されている。『みんな』には、わたしは含まれない。孤児院のみんなが両親が居ないか捨てられたかという不幸を背負っているのは同じはずなのに、パシェニャは、自分はそれらの不幸よりさらに不幸な人間だと思っていた。

  3

 ところで、話は変わるが、孤児院の子供たちの中にはリーダー的な11歳の女の子がいた。名前はディアナ・ジル・エリス。大抵の場合「ディアナ」と呼ばれるそのイギリス系の女の子は、緑がかった金色のキレイに整えられた髪を持ち、多少の腕力を持ち、運動が得意で、勉強もニガテではなかった。国語の時間の作文「戦争と地元の人々」はママたちもうなる筆致だった。戦争の一番の犠牲者は、勝った国でも負けた国でもなく、地元を荒らされた無辜の人々、世界中に埋設された対人地雷の数は驚くべきものなのだ、云々。
 ちなみに、ディアナにも悪癖のようなものがあり、それは、1日にコーヒーを1リットルは飲まないと頭がうまくはたらかないというやや奇妙なものだった。
 ディアナと仲が悪い子はいなかった――パシェニャ一人がディアナをねたむような目で見ていなければ。
 ディアナは、パシェニャに友達がいないのを不憫に思ったのか、パシェニャが孤児院に来てちょうど2週間のところで、
「パシェニャをいじめるのは止めるべきだと思います。パシェニャの気持ちも考えてあげて。ここにいるのはみな家族です。そして、みな友だちであるべきはずです。パシェニャにも声をかけてあげて」
 そう申告した。
 しかし、その結果は惨憺たるものだった。
 一例――パシェニャに声をかけることにしてみた少し勇気のあるロバートという10歳の少年(注・この名前は特に覚えてもらう必要はありません)は、
「ぼくを呼ぶときは『ボブ』か『バート』って呼んでみていいよ。ほら、『ボブ、サップ?(Bob, what's up?)』とか」
「…………」
 パシェニャの沈黙。この沈黙の意味するところはパシェニャ自身にもわからなかったが、とにかく身をひそめるという条件づけだけはあった。周りからは、どう見えていただろうか。喋るのがイヤな相手には何も応えない残念な子だと思われていたかもしれないが、まあそれでもいい、パシェニャはそう考えたいた。
 そしてそれ以降は、
「何にも応えられないやつ」「はなしたがってない」「だから友達がいないんだよ」「ノリ食ってるし」
 子供たちのほとんどは、ことあるごとにパシェニャをそう蔑み、ときには嘲笑した。ママたちは、ほうっておくのが一番だと結論づけてしまったようだった。
 しかし、ディアナだけは、それでも、パシェニャをいじめる子供たちを注意した。
「となりで食べてもいい?」
 ある日、ディアナは給食の時間にパシェニャにたずね、パシェニャの応えを待たずにとなりに椅子を持ってきて座った。
「……………」
 パシェニャは沈黙をもって応えた。
「パシェニャは、何が好きなの? 猫? 犬? 象さん? お菓子だったらどんなのが好物? こんど買ってもらえるらしいんだけど、実は『UNO』は知ってる? たしかイタリアから来たんだよね? たまに図鑑とか見てるみたいだけど、ハマってる本とかある?」
 ディアナは矢継ぎ早にパシェニャが自己紹介したくなるような質問を続けた。
「……………」
 しかし、パシェニャは再び沈黙を続けた。この沈黙の意味するところは前述と同じ。パシェニャ自身にも意味はわからない。それでも、言いたいことは、ディアナの質問のし始めから10分してから考えついた。
 猫はあまり好きではない。野良猫に思いきり引っかかれたことがあるからだ。犬も、野犬に追い回されたことがある。象? 図鑑では見たことがあり、大きいらしいが、どんな大きさなのか全くわからない。孤児院にはなぜかテレビが無かった。教育方針というやつだろうか? つまらない映画上映会はあったが、象は出てこなかった。お菓子? 捨て菓子の話はしたくないな。ウノって何だろう? 「1」のことかな。ながめている本は、大概面白くてためになるかも。伝記マンガは何回も読み返していて、99%の発汗で電球を発明したエジソンや、理想の医学者・野口英世の話が好きかも知れない。
 しかしながら、パシェニャは応えられなかった。
 なぜなら、ディアナはそういう応えを聞く前に、質問を3分くらい続けたあと、5分で給食を食べ終え、パシェニャのとなりから、
「こたえは明日でもいいからね!」
 と、離れていってしまったからだ。パシェニャが応えようと少しは思ったことには気付かずに。
 パシェニャには、そのあとにディアナに応えを言いに行く勇気はなかった。

  4

 パシェニャが孤児院に来てからちょうど一ヶ月後、偶然の産物だが、『不潔なピチカータ』というあだ名がパシェニャに対して使われた。このあだ名は『ある事件』に関係していた。孤児院でさげすまれるのには慣れていたが、これだけは許しがたかった。『不潔なピチカータ』は、ある男の子によるものだった。それは「ノリ食べのピチカータ」「爪食いのピチカータ」「髪抜きのピチカータ」「すっトロいピチカータ」に続けて言われた。
 そう呼ばれた理由があるとしたら、ダニアレルギーで体じゅうがかゆくてボリボリとかいていたところからだろう。
 パシェニャはその『不潔なピチカータ』を聞いた瞬間、スラム街でもいじめられていたことを一瞬で思い出した――『それよりひどいこと』も。
 パシェニャは激昂した。今まで椅子を投げたりというケンカはしていたし、ほかの不名誉なあだ名をなんとか(内心涙目ではあったが)堪えていたのだが――
「この子、泣いてる――」
 と言いかけた男子を、パシェニャは殴り飛ばした。激昂したパシェニャは、泪を流しながら。グーやチョキやパーでは危険なので、本能的に肘の内側で。その攻撃は、文字どおり相手を3メートルはぶっ飛ばした。40キログラムの男子は壁に激突し、気絶した。
 ベテランのほうのママが大声で、
「何して――」
 怒鳴りつけるその声は、
「ウオォォォォォォム!」
 パシェニャの、さながら狼のような咆哮によってかき消された。「なんてこと……」とつぶやくことすらできない。二人のママたちの自信は崩れ落ちたようだった。
「ウオォォォォォォォォム!」
 パシェニャは椅子を蹴り飛ばしまくり、イジメてくるやつらに机を投げつけまくった。イジメていたほうは、大声で泣き出したり、かん高い悲鳴をあげたり、机を投げつけられて「痛い! 痛い!」とのたうちまわったりした。
 ママたちは、何もできなかった。自分の何倍もの――凶器とも言える――力を持った野獣に、人間が勝てるだろうか?
 しかし、そこにはママたちを越える勇気を持った女の子がひとりいた。ディアナだ。
 確認しておくが、ここでのディアナは11歳、パシェニャは9歳だ。
「暴力はやめろ!」
 ディアナはパシェニャの目の前のまでいき、凄みをきかせた。
「ウォォォォォーーム!」
 パシェニャはなおも咆哮し、ディアナに向かって拳での突きをくり出した。
 ディアナはそれをくらってしまった。3メートルふっとんだが、受け身をとった。
「言葉が通じないなら、実力行使する!」
 それを聞いたパシェニャの中で、何かのタガが外れた。
「やれるもんならやってみろ!」
 泣きながら、そう叫んだ。
 ディアナは応えた。
「決闘ね」
「望むところだ! こちとらスラム街育ちでな、暴力対暴力には慣れっこなんだよ!」
 敵意をあらわにした野良猫や野良犬は、『人間』よりも強い。それに、ケンカはスラム街では日常茶飯事だった。生き延びてきたパシェニャが強くなるのは自明の理だった。
「――そう。暴力かもしれないわね……」
「はん! 家族だとか言ってたけど、確かに家族間暴力ってのもあるな! それで、勝ったらどうするんだ?」
「わたしが勝ったら、あなたが『暴力をふるうのをやめる』と誓ってもらう。そして、みんなにあなたをからかうのを何としてでもやめさせる」
「へえ? じゃあ、わたしが勝ったら?」
「わたしが、あなたの願いを何でも一つ聞く。そして、みんなにあなたをからかうのを何としてでもやめさせる」
「どっちにしろ悪くないわね。上から目線なのがちょっとばかりイラつくけれど。じゃあ、戦いながら願いでも考えとくわ」
 その場にいる皆が、だんだんと落ちついてきたような雰囲気になってきた。そして、驚いていた。すさまじい腕力、そして何より、全くと言っていいほど喋らない子だったパシェニャがこんなにセリフをバンバン吐けることに。
 子供たちは落ちついてきた。そして、パシェニャとディアナのふたりを囲んで、半径6、7メートルはなれたところまで下がり、自然と、いわゆる決闘用のリングを作った。
 パシェニャの涙はいつの間にか止まっていた。
「で、実力行使ってのはどういう実力でいくんだ? バーリトゥード(なんでもあり)でもかまわないけどな!」
「そうね……じゃあ、例の金と銀のグラディウス(注・ここでは決闘用の剣の意)でいきましょう」
「いいだろう、得意種目選びやがった罰を味わわせてやる……こい!」

 孤児院の決闘のルールを、10歳の少年が審判となり、読み上げた。いわく、
「3本勝負で、2本先に取った方が勝ち。もしくは『まいった』と相手に言わせても勝ち。胴への突きか斬り、そして地面に尻または膝をつけさせても勝ち。それらをもって有効打とし、1本とする」

 1分後、パシェニャはシルバー・グラディウスを、ディアナはゴールデン・グラディウスを持っていた。ママたちは、見なかったことにしようと、すでに立ち去っていた。「ああ、もうこんな時間、夕飯の支度をしないと」などと言いながら。
 なぜママたちがそんな決闘ごっこを黙認するのか? その答えをパシェニャは知っていた。子どもたちのうちの3、4人も知っていた。剣術は、ディアナの将来のためだった。ディアナは特別に剣の稽古を受けており、その成果を皆に教えていた。教えることにより、教える側もさらに学ぶことになる。真夜中の稽古は騎士団の一員になるために必要だった。コーヒーをガブガブ飲む悪癖は真夜中に密かにする稽古に必要だった。
 さて、なぜ孤児院にゴールデン・グラディウスなどという物騒なものがあるのか? という疑問があると思うが、それらの剣はたんなるかなり軽い木の棒だった。材木が何でできているのかは誰も知らなかったが、いわゆる木刀と比べたら非常に軽く、最悪「突き」が目に入ることさえなければたいした打撲傷にもならない。
 観衆となった子供たちは、最初はかなりビビったものの、2人の決闘を観戦したいという感情がビビりの感情に勝った。
 パシェニャは、なぜか、2つのことを一瞬にしてさとった。
 まず1つめ――無敗のディアナを自分がぶっ転ばせば自分のあつかいはよくなるのではないか、ということ。2つめは、ディアナはわざと負けようとしている、ということ。
 その2つだ。
 そして、パシェニャは叫んだ。
「全力で来い! 『わざと負ける』ようなブタ野郎じゃあないだろう? このできそこないの聖騎士団庶務係が!」
 ディアナはひるんだ。
「い、いわれなくても――」
「ハデに決めようぜ! さっさと終わらせてやる!」
 ディアナは、本当にわざと負けるつもりだったことを見抜かれたかのように怯んだ。
「ぜ、全力で来い!」
 やや調子のハズレた声でディアナはこたえた。
 戦いが始まった。
 まず、双方が2、3歩下がった。相手の様子、やりかたを読むためだ。
 ディアナは手に馴染んだゴールデン・グラディウスをヒュンヒュンとふり、空中にXを3つ刻んだ。自分が剣士であることのアピールだ。
 それにたいして、パシェニャはXを6つ刻んだ。
「なんで……できるの?」
「見よう見まねだ」
 子供たちは――観客たちは、ここまでの一連のパシェニャについて、当然だが、驚いていた。文字通り泣く子も黙った。なぜ普段ほとんどまったくしゃべらないパシェニャがそんな口調のセリフを吐けるのか。なぜパシェニャが剣を(木の棒だが)あつかえるのか。見よう見まねでできるものなのか。何者なのか。これまでいじめれられているときになぜこのような本気の反撃をしなかったのか。
 8、9秒の沈黙の後、
「ハッ!」
 ディアナが先手を取った。初激はボルトリアーニ突きだった。この技は一瞬剣を逆手に持ちかえるようにひねるフェイントを挟んでからの突きで、あいては防御方法をまちがえることになる――うまく使われた場合には。
「食らうかよ!」
 パシェニャはそれをアグリッパ防御でいなした。有名な基本技だ。ディアナの突きはあらぬ方向に外れた。
 つづけてパシェニャが反撃に出た。一瞬のティボルトをはさんでバックステップしてからのトトロス=ノトス3連斬りを放った。3連発の回転斬りだ。
 パシェニャのその3連撃を、ディアナは剣で受けた。が、かなり後退した。観客の1人か2人に背中をあずける形になった。
 この孤児院では、これ以前にもルールのあるこのたぐいの決闘が(少なくとも30回は)行われていたが、そこでは、決闘の当事者のどちらかが「まいった」と言わないうちは、観客たちのリングが後退した選手を押し戻すことになっていた。暗黙のルール、残酷な光景といえる。
 剣ならば誰にも負けないディアナが押されている?
「本気出せよ! ディアナ!」
 観客の誰かが軽めに言った。
「もう十二分に本気でいっってるわ!」
ノロい……聖騎士団奥義でも使ったら?」
 挑発するパシェニャ。再びトトロス=ノトスを打つ。今度はあまり後退しなかったが、またもや観客に押し戻されるディアナ。
「なぜそんなアグリッパやトトロス=ノトスを使えるの?」
「言っただろう? 見よう見まねだ」
 ディアナの発汗は冷や汗へと変わっていった。追い詰められている。
「この技を使うことになるとは……!」
「……何のことだ?」
 ディアナは覚醒した。呼吸と血流でカフェインなどを制御し、全身を覚醒させる、オーバードライブとも呼ばれる、要するに超必殺技だ。パシェニャがテキトーに言った聖騎士団奥義は実在した。
 しかし、ファンタジーやメルヘンでないので、電撃や炎を放つわけではない。
 ディアナは剣を地面に軽く刺し、体を傾け、力を溜めた。パシェニャにはそれがかなり危険な兆候だとわかった。『初見』だ。
 観客の1人が、
「ディアナのあんな構えは初めて見た……」
 つぶやいた。
 パシェニャは、
「……隙が無い」
 ちょうどよい間合いをとれそうにない、かわせない技があると確信した。
 ディアナは剣を地面に刺したまま突進した。そんなことが可能なのか? しかしそれはまさに地面を剣のサヤとした抜刀術だった。
「……隙が無い」
 同じセリフを2度吐くパシェニャ。
 もしも、今のディアナに普通に反撃するとしたら、ただ『突き』を置いておけばいいはずだ。が、しかし、そうはいきそうになかった。突きは超反応の抜刀で弾き飛ばされること確実。パシェニャのシルバー・グラディウスは真っ二つになることだろう。
 突進してくるディアナ。
 返し技などできないパシェニャ。
 ディアナのゴールデン・グラディウスがパシェニャを正面から切り上げた。
 パシェニャはそれをくらってしまった。木の棒とは思えない質量の斬撃。ふっとばされた。観客に落下した。しかし、まだ「まいった」などとは言っていない。
「……ダウンはしていない……そうだよな?」
「『まいった』と言っておいたほうがいいと警告するわよ」
「いや、今ので見切った」
「強がりはそこまでにしておきなさい! まだ先があるわ! 『聖騎士団奥義・虚』!」
 再び突進するディアナ。
 パシェニャは見切ったと思っていたがさらに上を行かれるのを覚悟した。
 瞬時に考えた。
 バックステップで避ける余地はない。突きは駄目だ。横移動に対しても、瞬時に突進方向を変えてくるだろう。斬り上げに対して上から行っても弾かれるだけだろう。前、横、上、それらが駄目なら……
「下だッ!」
 パシェニャは地面から5ミリのところをなぎ払った。
 ディアナの剣と垂直に交わるところだ。
 ディアナの剣は折れ、ディアナの脚は打たれ、ディアナはバランスを崩してすっ転んだ。これでダウンの一本。続けて、パシェニャがディアナの胴をつけば決着のはずだ。
 ディアナは、
「くっ……まいっ……て、たまるか!」
 真っ二つになった剣をなおも握りしめ、ダウンから立ち上がろうとして、しかし滑って転ぶディアナ。脚のダメージが深刻なのかもしれない。
 そんなディアナになぜかとどめをささないパシェニャ。
「さっさと立て!」
「なぜ」
「もう一回ダウンをとればわたしの勝ちだ」
「このディアナ・ジル・エリスをそこまで愚弄するとは……!」
「フン! 『愚弄』か! 化けの皮が剥がれたな。プライドの塊、さすがは聖騎士様」
 観衆――子供たちは驚いた。パシェニャがおしていることもそうだが、何より、自分たち自身らがパシェニャを応援する気持ちになっていることに。
 さらにパシェニャのターンは続く。
 パシェニャはシルバー・グラディウスを放り捨てた。観客の輪の外にまで。
 どよめく観客たち。
「種目を変えるのはどうかな?」
 パシェニャのほぼ意味不明な提案。
「どういうつもり……?」
「そんな折れた棒に勝っても意味がないからな! こっからのルールは『素手』だ! ほれ、さっさと立たないか! 折れた棒なんか捨ててかかってこい!」
 ディアナはさいわい、立ち上がれた。脳震盪などはない。脚もふらついてはいない。折れた棒を地面に落とし、ファイティングポーズをとった。
「フン! こんなやつに負けるわけにはいかない!」
「ク、あはははは! 『こんなやつ』? どんなやつだと思っていたんだ? 言いたくないなら言わなくてもいいけどね。まあ、勝負は続けよう。このうぬぼれ屋のビビリのドブネズミの糞が!」
 パシェニャの挑発はそのように凄まじかった。
「ルールは、『ぶっ転ばしたら勝ち』でいい?」
 ディアナはなんとか冷静を取り戻そうとした様子だ。
「わかってるじゃあないか。そのとおり、2本先取、先に胴か手か膝か尻が地面についたら1本。それか顔面への打撃は一発で勝ち。もちろん、『まいった』と言ったら負け、でいいだろう。でも、『不潔なピチカータ』に対してまいったなんて意地でも言わないつもりだろう? 聖騎士様が! こい! ステゴロタイマンだ!」
 ここで、剣のルールを読み上げた少年が再びルールを確認した。だいたいパシェニャが言ったことと同じようなことを述べ、
「それでは両者、グラブをつけて」
 と付け足した。2人はグラブをつけた。
「それでは、準備はいいか? 双方よろしいなら……ファイト!」
 ボクシングもこの孤児院でよく行われていたゲームで、賭けも行われていた。賭けるといっても現金などではなく、朝食のパン一個などだった。
 ともかく、勝負は始まった。
 ディアナとパシェニャは互いに距離をとった。先程の剣術勝負と同じように。これは観衆にはお互い強烈なカウンター狙いの作戦だと見えている。パシェニャはそう考えた。
 そして、お互いファイティングポーズのまま、10〜20秒は経った。
「かかってこないのか?」
 パシェニャの挑発。
 ディアナは、
「様子を見ている。またカウンターをとられたらどうしようとかね。そっちも同じだろう、こないのか? ――なんてセリフはそっちが言うべきに思えるわね」
「もしかして、聖騎士様はボクシングは苦手かな?」
「わたしは」ディアナはその場でステップ「負けない」
「『不潔なピチカータ』が卑劣な技を使いそうで怖いんだろう? ああ?」
 そのように、パシェニャは挑発を続ける。相変わらずリングになっている観衆は無言だったり、あるいはヤジを飛ばす。ディアナとパシェニャがもはや同じくらいに応援されている。
 30秒ののち、パシェニャが先に動いた。互いに離れていた距離を少しのステップで縮めた。そして、軽いジャブ。左、左、右。
 ディアナはそれを見て、こいつはシロウトだ。ケンカが日常茶飯事のスラム育ちらしいが、最新の訓練されたボクシングを知らない――と判断したようだ。リーチではこちらが明らかに勝っている。ストレートとフックを置いておけばカウンターを取れそうだ、
 だが、それらはすべて、パシェニャの計算どおりだった。パシェニャの『右』にたいして置かれたディアナのストレートはかいくぐられた。パシェニャの準備運動を含めた動作はすべてフェイントだった。さきほどのジャブはわざと短く見せ、右も同様だった。パシェニャがかいくぐる動作は全く予測不能の反撃だった。
 がら空きのディアナの脇腹に強烈なボディブローが入った。うめいてよろめいて無防備になってしまったディアナ。苦痛により、意識が一瞬飛んだのを自覚した。
 そして、パシェニャの渾身の一撃。顔面への『10グラム』の打突。1円玉10枚分の渾身の手抜き、あざけりだ。
「わたしの勝ちだ」パシェニャは邪悪ともとれる笑みをうかべ、「そうだよな?」
 審判役はしばし立ちすくみ、急に気がついたというふうに、
「顔面への一撃により、ピチカータ・ミハイロヴナの勝ちだ!」
 と宣誓した。
 くずれおれるディアナ。
「な、なんで……すべてフェイント?」
「感謝しな! 未来の聖騎士団団長様の顔に傷はつけられないからな!」
 政治は顔でやるものでもある……観衆のだれかがそうつぶやいた。
 一瞬無言になっていた観衆は、みな拍手した。「おおぉぉぉ!」「よくやった!」「どっちも強すぎだろ……」「久々にいい決闘が見れたな」「誰がこのパシェニャに勝てるんだ?」
「さあ立て」
 パシェニャにはもう『爪食い』『ノリ食べ』『花吸い』『髪抜き』のおもかげはもはや無い。
 ディアナは起き上がりながら、
「日本のマンガでいう昨日の敵は今日の友、『強敵』と書いて『とも』と読むってやつかしら?」
 嫌味と尊敬の念をこめてそう言った。そして続けた。
「願いを聞く約束だったわね。どんな願いかしら?」
「それは……ええっと……」
「考えてなかったの?」
「考えてたけど……考えてたけど、でも、そう、と……と……」
「……ろ?」
 ディアナはジブリ作品の話かと本気で誤解したようだ。
 パシェニャは静かに、徐々に、自分の顔が赤らんでくるのを感じた。そして今までで最大の勇気を振り絞って言った。
「友達になりなさい! っていうのが願い……いや、命令よ!」
 ディアナも観衆も、しばしポカンとしたようになった。
「謹んで願いを受け入れるわ」
 観衆のみなからの万雷の拍手が場を満たした。
 2人は、こぶしをコツンとぶつけあった。とりあえず、今回はわたしの勝利だ。次はどっちかな。
 おしゃべりすらできないと思っていた。決闘が終わるまでは。奇妙な友情がそこにできた。
 たたえあったあと、ディアナは当然の質問をした。
「でも、なんでパシェニャは今まで黙ってたり、実力を隠していたの?」
「それは……話すと長くなる」
 そして、パシェニャは、誰にともなく、その場にいない人に対してでもなく、話し始め――なかった。身を潜めなければならないという条件付けは常に念頭にあった。

  5

 パシェニャはディアナと友達になった。
 ドッジボール。フットサル。鬼ごっこ。高オニ。三角ベース。カードゲーム。チェス。1日1時間だけゆるされた
クラシカルPP(注・プレイパームというポータブルゲーム機。ここでは初代のモノクロ画面の機種)のテトリス対戦。孤児院の子供たちは6班にわかれているのだが、それぞれの班の持ちまわりで週一回ずつのファミコンソフト。そして決闘ごっこ。もちろん、読み書きソロバンの勉強も。そうしたものを、パシェニャはディアナと孤児院のみんな、文字通りみんなとやるようになった。
 しかし、歌は歌わなかった。
 あるとき、ディアナが訊ねた。
「パシェニャはどこで剣術やらボクシングやらを習ったの?」
「だいたいのことは、本で覚えた。それと、スラムでの野良犬、野良猫、いじめっ子なんかの相手、そんなところからかも。犬は人間より強い。それをあしらえる程度には強くなれた」
「ウソでしょ!? でも、そういえば、パシェニャは図鑑とか伝記とかよく読んでたわね。でもそれだけでできるはずがないと思うのだけれど……トトロス=ノトスを完璧に使えるのは尊敬するわ」
「見よう見まね……わたしの一人部屋からディアナの特訓が見えた。目はうまれつきかなりいいの。あとは1日2時間ほど、それの真似っこ。聖騎士団奥義は見てなかったけどね」
「へ、へぇー……」
 ディアナは悔しさに満たされた。わたしが直に指南された剣術を、見ていただけで盗まれるとは……しかし、今はパシェニャを完全に信頼していた。そんなことを言い、ディアナは続けた。
「でも、いいライバルができたのは素直にうれしかった。本当に。あの決闘がなかったらわたしは、どこかなまけていたかもしれない」

 そうして、3年が過ぎ、パシェニャは12歳になっていた。
 ディアナはすでに聖騎士団に引き取られ、孤児院をさっていた。
「またいつか。じゃあね」
 ディアナはそんなそっけない言葉だけ残し、しかし涙を見せながら、皆と、そしてパシェニャと別れた。

 そして12歳のパシェニャも孤児院を去るときが来た。孤児院にある男が現れた。パシェニャの身元を引き受けるのだという。
 パシェニャは男を見て、
「生きてたのね!」
 果たして、男は『あのときの』男だった。男はいくらか怒っていた。
「身を潜めるようにしたはずだったんだがな。歌うと俺が
来ないという条件付けでな。なんで剣術やボクシングなんかで目立っているんだ? というか話によれば『君臨している』レベルだと言われたぞ」
 パシェニャはなんでもないかのように、
「銃は扱ってない。歌も歌ってない、約束は守ってる。そこ以外はフツーにしているつもりだったよ? 剣とボクシングと――銃の早打ちの鍛錬――は毎日2時間、本とディアナのマネしただけで」
 もちろん、「歌」と「銃」だけが禁止だと勘違いしたフリだった。
「屁理屈だな。あいつの娘ならこんなことになるだろうとは思ってはいたが」
 さて、パシェニャのお別れ会が開かれた。
「銃はないけど……歌を歌ってもいいのかな? かな?」
 上目づかいで男に訊ねるパシェニャ。
 男は、
「勝手にしろ」
「じゃあ、それでは、コンサートを始めます!」
 孤児院の小さな教室の、一段高くなった教壇という名のステージで、パシェニャは歌い始めた。
 できそこないのジャイアンリサイタルか? 誰かがつぶやいた。
 それが始まってみると、母ゆずりのプロのオペラ歌手の歌というのがちょうどいいものだった。鈴虫の声の響き、涼しげな風鈴であり、考えうる最高のソプラノ歌手をも超える祝福だった。イタリアのカンツォーネは皆の眼前にたゆたうヴェネチアの水の流れを現し、優雅な午後のカフェの一息をつかせた。
 続けて、ロシア、イギリス、アメリカ、日本、韓国、中国、フランス、スイスの国家を歌い上げ、最後にイタリア国歌を力強く歌った。
 皆は盛大な拍手と、
「アンコール! アンコール!」
 の絶賛でこたえた。
 パシェニャは『ドラゴンクエストのテーマ』をどの世界のどこの言語でもなくラララでもハミングでもない歌詞で歌った。
 さらなる万雷の拍手。
「スゴイ!」「なんで今まで歌わなかったの? 結局?」「もしかしてプロだったのが恥ずかしかったとか?」
 パシェニャは一言、
「変な約束しちゃったからよ」
 意味不明な応えを吐いた。

 そしてパシェニャは、
「じゃあね。またいつか」
 男の車で孤児院をあとにした。
「冗談でなく、この後、どうするんだ? プロの歌手になるほうが善い気がしてきたぞ」
「いや、お父さんのあとを継ぐわ」
「《サモルグ》は容赦のない組織だ。きみの両親は《サモルグ》に殺されたといえるのかもしれないのだぞ……詳しくは言えんがね」
「それなら、容赦を覚えさせればいいんじゃないの?」
「ふむ。一言ボスに気をつけて匿名で伝えておこう」
 この後、パシェニャは《サモルグ》の殺し屋になり、結局は《サモルグ》を抜けることになり、極東の島国でだれそれと出会ったりするのだが、それはまた別の話だ。

  a

(無粋ですが、この章はいわゆるR18的なえげつない表現を含みます。いわゆるダークサイドです。ご注意を)

 両親と離れ離れになってしまった少女ピチカータ・ミハイロヴナ・マノヴィチ、愛称パシェニャは3歳から9歳までの間、スラム街で育った。主に泥と垢と皮膚炎のせいで、第一印象は「薄汚い」「病気で哀れな子」「しっ! あんまり見ちゃいけません」などといったものだった。ねぐらは街の路地裏のダンボールハウスだった。友人はいなかった。パシェニャをからかって、殴って、バイキンが伝染るとののしってあつかい、ほどこしのお金を奪い取り、バカにした目で見る、そういう子供たちが友人でないとすれば。
 しかし、そういう子供たちがいないところでは、ちょっとしたものだった。世には大道芸人という職業がある。職業にまでするのは本当のプロレベルでないとできないが、パシェニャにはそれができた。道行く人々がおひねりをくれ、リクエストされた歌は全部歌えた。パシェニャの母は、名の知れたソプラノ歌手だった。母はイギリスやロシアやドイツやフランスの歌、そしてイタリアのカンツォーネを合わせて1200曲は歌っていた。パシェニャはそれを聞きながら育ったのだった。3歳までではあるが。母の顔は覚えていない。しかし、キラキラした、ときにロシアの力強さで、ときにヴェネチアの緩やかな水の流れであるその歌の数々は、母の顔のかわりに魂に刻み込まれていた。
 そんな母とも謎の父ともなぜかはぐれてしまったわけだが。
 パシェニャは、ねぐらといじめっ子からあるいて2時間はなれた街角で、母の歌を真似して歌って、見た目はやや小汚いものの、評判の歌上手の小さな子として過ごした。おひねりはプロの大人の大道芸人がもらっているのよりやや少なめだったが、ときおりバターをたっぷり塗ったトーストを食べることぐらいはできた。パシェニャの生活は、総じて、いじめられとおひねりでプラマイ・ゼロといったところだった。
 しかし、運命などというものがもしあるとしたら、それは残酷かつねじくれたものだった。
 パシェニャが9歳のとき『ある事件』が起きてしまった。
 いつものようにパシェニャがリクエストをうけてうたっているとき、好色そうなイタリアの若者3人がパシェニャにやや多めのおひねりを投げ、そして声をかけた。
「きみならプロになれる。プロのソプラノ歌手に。さっきの素晴らしいカンツォーネをちょっとクラブで歌ってみないか? 伴奏もつけられるぞ」
 パシェニャは1も2もなく応えた。
「歌ってみたい! プロに? 本当に?」
 パシェニャは車にのせられた。上機嫌で静かに歌を口ずさむと、母の声が心の奥底に思い出された。ハンドルを握りながらもいつも毎回違う歌を歌っていた母を思い出したのだ。
 車は1時間ほど走り、その間にもパシェニャは口ずさみ続けた。アリーヴェデルチ・ローマ。
「着いたぞ」
 と1人の若者。
 しかし、たどりついたのはクラブなどなさそうな路地裏だった。あまつさえ、見かけたことのあるような場所。パシェニャのねぐらの近くだろうと思えた。
 パシェニャは3人の若者の1人に突き飛ばされた。若者たちはニヤニヤと笑っていた。1人はカメラを持っている。
「よくみると、なかなかかわいい顔してるじゃあねえか」
「ちゃんと撮っとけよ。あとで録画できてませんでしたってのはいらつくからな」
「じゃあまずはアレか? ひひひ」
 パシェニャは当然かも知れないが、理解した。いくらいじめられつづけていたとはいえ、こんな恐怖はあじわったことがなかった。
 若者の1人がズボンのベルトをゆるめ、それを露出させた。すでに、いきりたっていた。
「ほら、わかるだろ? 笛吹きの練習だ。しゃぶれよ」
(「しゃぶれだぁ? テメーがしゃぶれよ」とパシェニャは自分の下着を素早く脱いで若者の口にねじ込んで窒息させる――ということをしたかったが、できるはずもなかった。恐怖。一巻の終わり。だが一欠片の勇気はのこっていた)
 拒んだ。口を開けてたまるか。
 若者の2人目は、それじゃ、とパシェニャを背後から羽交い締めにして、手足の自由を奪った。
 そして、パシェニャの服を破りとった。まだほぼ膨らんではいないが、ほんのりとだけ膨らんでいるともいえる裸体は、3人のギャングを3人とも一瞬で欲情させた。
 最初に露出させたギャングは猛烈な勢いで自らをしごき、1分30秒で発射した。うめくようなあえぎとともに、パシェニャの顔から胸のあたりに白濁液をぶっかけた。
 路地の建物の2階あたりから『不潔なピチカータ』というつぶやきがきこえた。そしてそれにつづく2、3人の小さな声での嘲笑。
 ギャングたちはそれでもおかまいなしだ。こんなスラム街でその程度のことを通報するやつはいない。警察がいちいちかまっていられない程度の『軽犯罪』だった。こんなスラム街では。逆に、通報すればギャングにケンカをうったことになってしまう。ギャングが警官に袖の下をわたして『軽犯罪』を見て見ぬふりをしてもらっているうのかもしれない。
 ギャングたちは、本番行為はあとにとっておくつもりらしかった。
「た、助けてっ!」
 パシェニャは絶叫した。
 果たして、助けが来た。
「やめておけ」
 妙に落ち着いた男の声が響いた。
 20メートルくらい離れたところに男はいた。警官だろうか? いや、警察官ではない。巡回中の警察はあんな黒いトレンチコートなど着ないだろう。そもそも警察がほとんど見回りをしないスラム街なのだし。
 男は、おもむろに銃に弾丸を装填し、安全装置をはずし、両手でその拳銃をかまえた。
「な……?」
 ギャングの若者たちがどうすべきか判断のつかないうちに、若者の体に、赤いレーザーポインターの光点が現れた。
 そして、男は撃った。
 発射された弾丸は、白濁液を発射した若者の股間を正確にとらえて、吹き飛ばした。
「ぎゃあぁぁぁぁぁ!」
 のたうち回るぶっかけ済みギャング。しばらくは、泣き叫んでのたうち回る以外の行動はできないだろう。
「なんだお前は!?」
 のこりの2人のギャングの2人ともが言った。
 拳銃の男はもう一発撃ったが、これは狙いを外した。2人目、カメラを持っていたギャングの腕をすり抜けて壁に弾丸がめり込んだ。
 3人目は早くも逃走を開始していた。
 2人目、カメラのギャングは、彼にとっては幸か不幸か、瞬時にナイフをかまえて、勇気をもって男に向かって突進した。そして、切払った。ナイフは銃にあたり、
男の手から銃をとり落とさせた。そこまでは、ギャングにとって幸いだった。
 だが、拳銃を持っていた男は冷静に、襲い来るナイフをコートに仕込んだ防刃防弾の篭手でいなし、ギャングのカメラごとそいつを殴り倒し、わき腹と股間の急所に蹴りを食らわせた。
 のたうちまわるギャングが2人――
 3人目はもうすでに100メートルは逃走していた。
「しまった、クソッ、逃げられてしまう……!」
 男は焦りを隠せない。
 そこでパシェニャは、どういうわけか自分でもよくわからなかったが、おもむろにそこに落ちていた拳銃に弾丸を装填し、迷路のような街路を走ってギャングを追いかけ、拳銃を両手で構え、レーザーポインター付きとはいえ100メートル先の逃走者を狙って撃ち、片脚に命中させた。
 逃走中の最後のギャングは悲鳴をあげて倒れた。
 パシェニャはすぐとなりに来ていた男に銃をわたした。
 男は走りながら弾丸を込めなおし、倒れたギャングの頭に対して0.9メートルの距離で2発撃った。残りの倒れているやつ2人の頭部にも同じことをした。ホロ―ポイント弾により、ギャングは頭部が破裂し、何者だったのかわからない死体となりはてた。
「よく100メートル先のやつを狙えたな、信じられん」
 パシェニャのほうを向き、
「なぜそんなことができる? つまり、銃の扱いのことだが」
「ええと……見よう見まね……」
 男は心底からといった感嘆のため息をついた。そして、パシェニャにコートをかけてやり、きれいなタオルを渡し、落ち着かせた。
 さらにマフラーを内ポケットから取り出し、パシェニャに巻いた。
 男はパシェニャが3分くらいで平静になるのを待ってから話し始めた。
「これをやったのは、きみの祖母の孫だ。いや、ジョークでなくてな。きみと私は『いとこ』だという意味だ。警察が来たら、『意味がわからないけれど』と付け加えて、そう応えろ。私はつかまるかもしれない。だが、きみは無事だ。手厚く保護されるだろう。それと、なるべくロシア語を使ったほうがいい。この国にいたら危ないことが多いだろうからな」
 パシェニャは落ち着いてきた。呼吸の乱れもなくなっていた。
「やけに親切ね」
「当然のことさ。今まさに私の命の恩人なのだからね、きみが。あいつらは暗殺者である私を狙っていた仇敵の暗殺者だったんだ。わたしはいわゆる逆尾行をしていた。こいつらのことを探ってはいたが、3人組で、3人とも重度のロリコンだということくらいしかわかっていなくて――いや失礼」
 そこでいったん男は無言になった。
「……まだなにか話すことがあるけど言い出せない?」
 パシェニャは何かを察した。
「いっておかないとな。きみの両親のことだ。君の両親はきみをこんな『仕事』に巻き込みたくなかったんだ。《ある組織》(注・「ある組織」という名の組織。Some Organizations 略してサモルグとも呼ばれていた)に関わらせたくなかった。それで、きみからはなれた。捨てられた、ときみはおもうかもしれないが、巻き込みたくなかった、という一心だった。そして」
 男は話しづらそうに続けた。
「きみの両親は優秀な暗殺者だったが、組織内の抗争に巻き込まれて死んだ。2人とも。そして、きみはこれからどうなるかだが、ある程度ならきみの自由だと言える。きみの人生はきみのものだ。どうするね?」
 すべてを知った、しかしパシェニャには両親をうらむべきか、ありがたく想うべきかわからなかった。悲しさより驚きが大きかった。ただ、実の娘から離れていった2人の親理由はついにわかった。ただ巻き込みたくなかった。それだけ。それでも、
「……わからない。でも、どうもわたしには銃の才能があるみたいなんだけど。でも……わからない」
「それが正解かもしれないな」
 男はため息をついた。
「へ……?」
「きみがこれからやるかもしれない仕事は、亡き両親が、おそらく誇りに想うようなものではない」
「どうして? お父さんもお母さんも、立派な……その……(殺し屋)……だったんでしょ?」
「立派か。そうかもしれないな。父親の仕事の跡継ぎ……それは、あいつ――きみの父――にとってはやって欲しくなかったことなんだ」
「えっ? ……ということは、お父さんから私への遺言みたいなのがあるの?」
「察しがいい。あるんだよ。2つがある」
「1つめは?」
「きみがまず選ぶんだ。仕事を継ぐか、別の生き方をするか」
「別の生き方をする、といったら?」
「こうだ。『勉学に励み、人の役に立つ人間になることを目指しなさい』」
「それは難しいかもしれない」
「そうかねえ。きみはすでに2カ国語をしゃべれているし、歌はプロレベルだし、色々才能があるんじゃあないかな」
「でも、正直にいうと、『父の後を継ぐ』ほうを選びたいわ!」
「その場合の遺言はこうだ『いつか地獄で会おうぜ、ベイベー』だ」
「それ――それでいい!」
 パシェニャは脊髄反射的に喜びに満たされた、
 そして真剣に考えた。人殺しは悪いことだ。だが、地獄で父親と母親に会える、半ば本気で信じてしまいそうな自分に驚いていた。さらに考えた。
「というか、その2つ、両立できるんじゃない?」
「さすがはあいつの娘だ」
 男は嘆息した。
 パシェニャはふと気づいた。
「もしかして、あなたが、その、いとこなんかじゃなくてお父さんなんじゃない? だって――」
 男は質問に応える前にさえぎって言った。
「きみが12歳になったら、迎えに来る。私か、他の誰かが。それまでは身を潜めるんだ」
「やっぱお父さんとしか思えない! だって、だって、声は……似てるけど違って……なんでかは自分でもわからないけれど……」
「残念ながら、私には嫁も娘も息子もいない。きみの父親に似ているとしたら、もしかしたら『匂い』か?」
「それそれ、それだわ! このマフラーがなぜかなつかしいのも……ガンパウダーのにおいだったんだ! お父さんは本当に殺し屋だったのね!」
 パシェニャは自分がすぐさま銃の申し子になれると思った。
「どうすればいいの? 最初の殺しの依頼は?」
「それはまだあとの話だ。子供暗殺者という手もあるにはあるが。今のところは『身をひそめる』――それだけは守ることだ。もちろん、きみには才能がある。鍛錬は密かにやれ。まず、孤児院に行くことになる。でも、孤児院では、ここできみがやったこと、やれたこと、やれることは、誰にも気づかれないようにするんだ『秘密の特別講義
』があるかもしれない。それでも『身をひそめる』んだ。ストレス――つらいこともあるだろうがね」
「要するに、銃の抜き打ちとか扱いの鍛錬をひそかに木の枝かなにかでやれとか?」
「そうだ」
「ええと、じゃあ、歌は?」
「歌も駄目だ。孤児院で評判の歌姫なんてのになってしまってはならない。とにかく、才能を隠しながら過ごせ。鍛錬は密かに。そうすれば、必ず、12歳のきみをひきとる者が来る。繰り返すが、私か、別の誰かが」
「わかったわ」
 パシェニャは覚悟の念を込めてそう言った。
 男はどこかへ去り、ひそかに通報したのだろう、やがて2人の警官が来た。
これはひどい
 警官の1人が頭部が粉砕された死体を見て目を背けた。そしてパシェニャに向かい、
「これはどういうことなんだ?」
パシェニャはあらかじめ用意していたかのようにロシア語とイタリア語を混ぜたわかりづらい話し方で応えた。
「わけのわからないことだけど、男の人が助けてくれて、わたしのいとこだとかわけのわからないことを言ってる人がやったみたいだったわ」
 警官は、パシェニャにとっては運のいいことに、それを鵜呑みにした。
「やったほうもやられたほうもギャングか」
「……たぶん」
「きみは、いわゆる孤児(みなしご)ってやつかい?」
「そう」
「両親は?」
「もうこの世にはいないけれど、ロシア人――二人ともロシア人で……」

<おわり>

※この作品はフィクションであり、実在の人物、団体、国、事件等とは一切関係ありません。また、時代考証、用語の使い間違い、金銭感覚などは「どうでもいい」とあしからずご了承ください。