良心

モンスター、悪役、迫害される奇形、そんな存在に共感することがある。
耳をかじって蝋人形が殿堂入りするようなところを目指すのもアリだと思うことがある。
でもそんな感情はほぼ一時的なものであって、
それを“実行”したら
「何開き直ってんだこの“外道(クズ)”がァッ!
 反省しろ! 謝罪しろ!
 “賠償(かねか)”えせ! 謝罪と切腹しろ!」
といわれてしまうのは間違いない(間違えて「セックプしろ!」といわれることもある)。
頭をボウズにしたところでなんともならないし、やくみつるにおちょくられてやくみつるを呪う会に入会してしまうかもしれない。まったくやくみつるもたいへんだ。
結局は悪ではない方向に自然と向かっている。
しかし、この「謝ることを知らない存在にあこがれる気持ち」は実際行動としてあらわされていた時代がある。
大昔にはそういったモンスター、悪役、迫害される奇形が跳梁跋扈していた。
それがなくなってきたのはマスコミによるバッシングの力が出てきたのが主な原因である。
このバッシングはいわば汚物を消毒する「人々の良心」をそのまま映したものである。
「人々の良心」は、モンスター、悪役、迫害される奇形を叩いて殺すのを目的のひとつとしている。
見ていて吐き気がする理由は、モンスター、悪役、迫害される奇形を叩いて殺す残虐なシーンだからで、
見ていてスカッとする理由は、モンスター、悪役、迫害される奇形を叩いて倒す正義のシーンだからだ。