ショートショート「溺れた女の子を忘れない」

あなたの目の前で女の子が溺れていた。
氷が薄くなっているところだったようだ。
女の子はスケート靴の重さを呪いながらあなたに助けを求めている。
あなたは計算した。
まわりには他に誰もいない。五百メートル先にも誰もいない。大声を出したとしても助けを呼ぶのは無理だ。
女の子を氷が薄いところへふざけて押して滑らせたのはあなただった。
すぐに女の子に手を差し伸べればなんとか引き上げられそうだが、引き上げたらそのあとどうなるか。あなたは女の子の命の恩人にもなるが、しかしそもそも女の子を押して危険な目にあわせたのもあなただ。そのあと、あなたが何を言おうと、あなたは罪のため一生罰せられ続けるのではないか。それに、手を伸ばすにしろ何にしろ、薄い氷に空いた穴から助けること自体非常に難しい。十中八九あなたも一緒に溺れてしまうだろう。
一方このままスケート靴が女の子を湖の底に引っぱるままにしたらどうなるか。
女の子の姿が急に見えなくなったんだ。でも声が聞こえたかもしれない。さがしてると、氷に穴が開いていて、もしかしたら、もしかしたら……。そう言っておけば自分の罪も罰ももっと少ないのではないか。
その場合、あなたが忘れさえすればいい。
あなたには、忘れたいことを自由に忘れることのできる能力があった。
あなたは昔、猫の死体を通学路で拾って学校に持っていったことがある。猫は見たところ刃物でめった刺しにされていたが、あなたは前の日の夜に猫の悲鳴を聞きながら目玉をくり貫いた刃物がどういうものだったか、その刃物をどこへ捨てたかを完全に忘れていた。満足して猫の死体を道端に置き、誰にも見られていないことを確認して家に帰り、そして忘れた。次の日、その通学路に猫の死体があるのをあなたは見つけ、こんなひどいものはとりあえず先生に見せようと思った。同級生の一人が、あなたの爪に詰まった赤黒いものに一瞬気をとめたが、あなたは心底からあわれな死体に悲しみ、怯え、慌てふためいているのだから、誰にも疑うことすらできない。
この忘れる能力は絶対確実というわけではないようで、忘れられるつもりで書いた世界最悪のポエムが、白紙のテストの解答欄に幻視されることもあった。
しかし、今の状況、女の子に手を伸ばして助けたあとで何を忘れてみたところでどうやって人からの責めを避けられる? 女の子は自分も悪かったというかもしれないが、女の子を押したあなたのほうが最悪だと皆から思われ続けるだろう。
さて、計算は終わった。
つまり、あなたはこの女の子を忘れ去るべきなのだ。
「たすけて! たすけて! 手を! 靴ぬげない! 嫌! お願い、手を! たすけ、たすけて、いや! たすけ――」
女の子は沈んでいった。
あなたは目と耳を塞いだ。
「忘れろ……なにもかも……全てを忘れるんだ……」
何かを選択的に忘れるためには、それのことを考えなくてはいけない。
ゴボゴボゴボと音を立てる冷たい水と泡。
あなたはその記憶を丁寧にハサミに力を込めて自分から切り離して見えない場所へと放棄する作業に集中した。ハサミは決して切れ味鋭くはなく、力の込め方によってはグニャグニャの記憶が強く抵抗する。
この女の子の記憶は手ごわかった。
あなたは分厚い鉄の板に安物の工作バサミで挑んでいた。
あなたは今までの全ての記憶が、見えない場所に捨てたはずの記憶が、単なる日陰の集積所に置いてあるだけだったと気づいた。
集積所は、忘れるときにはいつもちらりと見えていたかもしれないが、しかし忘れてしまいさえすれば、そのこと自体も忘れてしまえる。
しかし、鉄の板を切り落として捨てようというこの格闘中に、集積所の存在がかつてなく近くに現れてしまった。
あなたがかつて忘れた猫の血しぶきや自作「北極の風に乗りて歩む暗きものの歌」が、水の中に消えていこうとする女の子にくっついてきた。
女の子は実在世界で沈んでいったときの助けを求める言葉を千倍にも醜悪にした凄まじい呪いと恨みとを叫びながら、水面でもがき続ける。
ここまで頑丈に抵抗する記憶ははじめてだった。
全力でハサミを押しきらねば。
女の子と、くっついてきてしまった絶対に思い出さないはずだった最悪の記憶とは、ほとんどあなたの普通の記憶の領域になるまで迫ってきていた。
あなたは全力で切った。
しかしあなたの手は(ハサミは)滑った。
あなたのハサミは鉄の板である沈む女の子以外の何もかもを切り離してしまった。
あなたは沈み行く女の子以外の全てを忘れた。
"Sinking of Maud you forget everything else."